第90回 植物の香りに学ぶ生態系制御
植物の命をつなぐみどりの香り
花の香りには、受粉を媒介する虫たちを呼び寄せる働きがあります。一方、普段はほとんど匂いを発することのない葉っぱが傷つけられて組織が破壊されると、揮発性化合物である“みどりの香り”を合成して放出します。草刈りをしたり、葉をちぎったりすると匂う青臭さであり、細胞膜の脂質を利用して生合成しているのです。では、“みどりの香り”はどのような役割を果たしているのでしょうか?
植物組織を殺して繁殖する灰色かび病に対する抵抗性を評価したところ、この香りを大量に生産する方がはるかに抵抗性が高いことが明らかになっています。また、アオムシがキャベツの葉を食べると、キャベツが放出した香りに寄生バチが誘引されアオムシに卵を産み付けます。アオムシは孵化した寄生バチの子どものエサとなりますが、これはボディーガードを雇う植物の生き残り戦略と言われています。
そして最近の研究で、“みどりの香り”が植物の会話にも関与していることがわかり始めています。1本のトマトの苗木をハスモンヨトウという害虫に食べさせ、別のトマトに向かって風を流し、傷ついたトマトが発する匂いを送ります。これは、仲間が食べられるのを匂い通して“立ち聞き”させるという実験ですが、後に、この立ち聞きさせたトマトにハスモンヨトウの幼虫をしかけると、立ち聞きしていない別のトマトと比べ、より多くの香りを発することも明らかなりました。
動物のように嗅覚をもたない植物ですが、葉っぱ全体で匂いを吸収して危険を察知。細胞内に取り込まれた匂い物質を配糖体のような毒性物質に変えることで、環境の異変に対抗しているのではないかと考えられています。防御や仲間どおしのコミュニケーションなど、こうした植物が身に着けたさまざまな香り戦略のメカニズムを解明し、農業や生態系保全へ応用する研究が進められているのです。
松井健二 教授
山口大学大学院 医学系研究科(農学系)
植物は環境をモニタリングし、最善な策で生き延びを図っている
植物は実にさまざまな能力をもっており、化学生態学的に非常に興味深いものがあります。たとえば、虫が葉っぱを食べるとき1枚の葉を全部食べずに、いわゆる虫食い状態にするのが見られます。それには、食べはじめはおいしいのですが、傷ついた植物が抵抗物質を出してまずくなって虫が移動するという、植物の戦略があります。そしてもう1つ、エサを生かさず殺さず、子孫のために残そうという虫の戦略も考えられます。そうした生態系の中にあって、植物は積極的に環境をモニタリングし、最善のことをして生き残りを図っていることがわかってきており、その1つが香りを利用することなんですね。 最近では、レーザー光による蛍光発色を用いて、どのように匂いが出ているか、匂いをモニターする装置も開発されています。そうした他分野の技術も導入させていただきながら、研究を続けていきたいと考えています。
みどりの香りはいくつかの物質の総称として使われますが、その1つが青葉アルコールと呼ばれるもので、ヘキセノールという炭素6個からなる物質が基になっています。1933年に、宇治茶の香りの研究をしていた日本人科学者により発見されました。現在では、工業的にも生産され、食品や歯磨き、シャンプーなどに香料として使われているほか、昆虫誘引剤などとしても利用されるようになっています。 さらに植物は、青葉アルコール以外に、その異性体(分子式は同一で構造が異なる)、青葉アルデヒドとその異性体であるみどりの香りをつくっています。これらは、季節や環境の変化、あるいは外敵に襲われたり傷ついたときなどに対応して、酵素活性が変化してつくり分けられていると言います。また、みどりの香り以外にも、ホルモンなどさまざまな物質を必要に応じてつくることができる植物の能力は、動けない植物が身に着けた最強の“知”だと言えるのです。 Views: 67