第60回 ボツリヌス菌に学ぶ薬物搬送システム
腸のバリアを突破する細菌毒の戦略
自然界にはさまざまな食中毒菌が存在しますが、その多くは消化管内で作用し、下痢や嘔吐、発熱などの炎症を引き起こします。ところがボツリヌス食中毒は、食物と一緒に口から入った神経毒素が末梢の神経細胞にまで到達し、神経伝達物質の放出を抑制して運動神経麻痺や呼吸障害、視力障害などを引き起こすもので、重症の場合は死に至ることもあります。
ボツリヌス菌が生産する神経毒素はタンパク質です。通常、タンパク質はそのままの大きさで腸壁を通過することはなく、アミノ酸に分解されてから吸収され、リンパや血中に移行して体内を運ばれていきます。しかし、ボツリヌス神経毒素は分解されず、タンパク質活性をもったまま腸から血中へ吸収されるため、一般の食中毒菌と比べものにならないほど強い作用を及ぼすことができるのです。そこには、ボツリヌス菌が生き残りをかけて身に着けた、巧妙な戦略がありました。
生物毒の中でも最強といわれる、ボツリヌス神経毒素には7つの型がありますが、必ず1種類以上の無毒成分が結び付いた複合体として生産されています。この無毒成分が、神経毒素を消化酵素から保護していることは、70年代にすでに知られていましたが、研究はそこでストップしていました。ところが最近の研究で、ある無毒成分が腸管上皮細胞の特定部位に作用してバリアを突破し、裏側から細胞間を広げて仲間の進入路をつくっていることがわかってきたのです。また、この成分を洗い流すと細胞のバリアが元に戻ることも、世界で初めて実験で明らかにされています。
細胞を傷つけずに、無毒成分でカムフラージュして腸のバリアを自在に開閉するボツリヌス毒素複合体の特異的な戦略。その解明は、腸の防御機構の本質に迫るだけでなく、細胞の機能を逆手にとった新しい薬物搬送システム(DDS)の開発へつながる大きな可能性を秘めているのです。
藤永 由佳子 特任准教授/松村拓大 特任研究員
大阪大学 微生物病研究所附属感染症国際研究センター
病原微生物を通してヒト細胞の秘密を知る
私たちが研究対象とするウイルスや毒素は危険な材料ですから、設備の整った施設でキチンと扱いを学んで臨まなければなりません。日本で高病原性微生物の基礎研究ができるのは、ここを含めて数カ所のみ。地味な研究で、なかなか学生が来てくれないのが悩みですが、研究人口が少ない分、やりがいはあると思います。 病原微生物と人の攻防は、守る側のメカニズムも攻撃する側の武器もとても興味深いものです。人の細胞だけを見ていてもわからないことが、細菌を通して見えてくることがある。それには、本当にワクワクします。この研究は10年以上前に着想し、ようやくここまでたどり着くことができましたが、自然界には、まだだれも調べていない毒素やウイルスがたくさんあります。時間はかかると思いますが、これからも世界初の研究に挑戦し、新物質の発見や生体メカニズムの解明につなげていきたいですね。
最強の生物毒といわれるボツリヌス神経毒素ですが、実は、薬としても注目されています。毒性による筋肉の弛緩(しかん)作用をうまく利用することで筋肉の緊張をほぐし、けいれんを抑えたり、痛みの軽減にもつながるというものです。眼瞼けいれん、顔面けいれん、首が曲がったりねじれたりする痙性斜頸(けいせいしゃけい)、あるいは脳性マヒに伴うけいれんほか、偏頭痛、歯ぎしり、腰痛など、さまざまな治療に注射薬として用いられています。また、美容分野では目尻のシワとりなどにも利用されているそうです。もちろん安全性には万全の注意を払い、副作用が起こる可能性を考慮した上で、治療は行われます。生物毒が治療に使われる例は古くからあり、現在もさまざまな研究が行われています。成分研究にとどまらず、毒素がどのように作用するかというメカニズムの研究が、こうした医療の高度化にも貢献するのではないでしょうか。 Views: 27